平成24年7月20日(金)
熊本地方裁判所にて、
第2次熊本原爆症訴訟の第7回口頭弁論期日が行われました。
あいにく午後から雨が降り始めましたが、門前集会を行いました。
門前集会では、原告の山中さんが、現在も12種類の薬を飲んでおり、原爆の放射能の影響による健康被害について、切実な思いを語られました。
門前集会で話をされる原告の山中さん(手前右)と、当事務所の弁護士寺内大介(左奥)
恒例の
団結ガンバロウ!です。
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<意見陳述書>
原告 米留範昭
1 被爆状況
私は、昭和17年11月8日に生まれ、2歳9カ月のとき、長崎の自宅で被爆しました。
自宅は、爆心地から約2.4キロの立山町にありました。
私は、原爆が落ちるとき、自宅の井戸端のたらいで水遊びをしていました。土間にいた母の話しでは、ものすごい爆風で、タンスが倒れたり、窓ガラスが割れたり、井戸端の屋根も吹き飛んだそうです。
母は、私と弟を連れて蛍茶屋の墓地に避難し、夜になって自宅に帰ったとのことでした。
翌朝、私の左頭が10センチくらいはれたので、両親は、私が死ぬんじゃないかと思って、勝山国民学校に 連れて行ってくれました。医者からは、「ばい菌が入ったんだろう」と言われたそうです。
母は、たくさんの病気をし、前の裁判で原爆症と認定されました。
2 被曝後の症状
昭和20年10月、鹿児島県姶良郡栗野町の母の実家に帰り、同町のひろせ病院で、頭部切開手術をしました。
幼少の頃から、手足のシビレや金縛りがありました。
私は、小学生の頃、疲れやすく、突然倒れることがありました。
しょっちゅう病院に行くようになりましたので、5年生のとき、被爆者健康手帳をもらいました。
昭和37年2月、19歳で大阪市浪速区の印刷会社に就職しました。2ヶ月くらいして、立っているのもつらいほど足腰が痛み、吐き気がしたので、浪速区の病院に行ったら多発性関節炎と診断されました。
2週間くらい入院し、1ヶ月くらい会社を休みました。
その後、手の関節も痛むようになりました。
被爆者健康手帳を紛失していましたが、昭和54年7月、西淀病院で手足や腰の関節の検査を受けた際、 再発行ができると聞き、大阪府に申請しました。しかし、証人がなかなか見つからなかったため、結局申請したのは、昭和60年10月1日になってしまいました。医師からは入院を勧められましたが、包装紙等の販売 業を自営していたため、通院しながら、投薬治療を続けました。
3 最近の病状
平成4年11月4日、熊本に帰ってきました。
平成19年まで、青果市場や、パン屋、警備会社に勤めていました。
平成18年7月29日にバイクで倒れ、右足関節を痛めましたので、熊本市民病院に入院して手術をしました。
最初、先生は、「大丈夫、1週間か10日で治る」と言われていましたが、なかなか治らず、結局、松葉杖の生活になりました。
私が原爆の話しをすると、市民病院の先生は、「被爆の影響で治りが悪くなっているのかもしれない」と言われました。もともと足腰が悪いうえ、右足の松葉杖で、買い物に行くのも不自由しています。
平成19年5月頃、トイレに行こうと思っても動けない状態だったので、救急車を呼び熊本市民病院に搬送 されました。左手にしびれがあり、MRIで検査してもらったところ、脳梗塞と診断され、2週間入院しまし、その後、リハビリのため、熊本託麻台病院に45日間入院しました。
平成21年6月から、臀部痛、腰痛、腰部脊柱管狭窄症などのため、くわみず病院に7回にわたって入退院を繰り返しています。
最近は、血圧が高く、動悸が激しく、息苦しくて、頭がぼーっとする日が多いです。月に1回程度、くわみず病院に通院して、毎日14種類の薬を飲んでいます。
もとの体に戻して欲しいですが、それが無理なら、せめて私の障害を原爆症と認めて、生活に困らないようにして欲しいと思います。
以上
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<破綻した国の急性症状論>
弁護士 寺内 大介
急性症状とは
原告ら第6準備書面に関連して、国の急性症状論の誤りについて、意見を述べる。「急性症状(急性障害)」とは、放射線被曝の直後(急性期)に発症する脱毛、下痢、嘔吐、皮下出血などの症状のことをいい、原告らの申請疾病である「晩発障害」「後障害」の対概念といってよい。もっとも、「急性期」については幅があり、議論がなされているところである。
急性症状を論じる意味
急性症状は、相当量の放射線を被曝した場合に呈する症状であるから、原告に急性症状が認められれば、当該原告が相当量の被曝をしたことを推定する有力な根拠となる。
この点、「新しい審査の方針」では、爆心から3.5km以内の被爆者について、相当量の被曝があったものと推定し、ガンなど一定の疾病については積極的に認定することにしたため、急性症状を論じる意味は減った。 しかし、爆心から3.5km以遠の被爆者については、当該原告の被曝線量を推定する一つの根拠として、急性症状を論じる意味が大きいと言える。
原告らの急性症状
本件原告らのうち、原告番号6番以外の原告はいずれも爆心から3.5km以内で被爆しており、急性症状の有無を論ずるまでもなく、相当量の被曝をしていると推定されるため、本件原告らのうち、急性症状の有無を論ずる意味が大きいのは、原告番号6番のみということになる。
国の急性症状論
国は、原告らが主張する被曝直後の様々な症状について、これを急性症状ではなく、精神的影響による心身症、あるいは、衛生環境及び栄養状態の悪化など、被曝以外の原因によるものとして片付けようとしている。
おそらく、国は、2km~3.5kmで被爆した原告の被曝直後の症状についても、これを被曝による急性症状とは認めないのであろう。
ここに国の矛盾がある。
一方で「新しい審査の方針」によって、3.5km以内の者につき相当量の被曝を推定することにしながら、他方で、DS86と「しきい値理論」に固執する余り、2km以遠の者に急性症状は発症しないと言い張る。
この矛盾をどう乗り越えるのかが、まさに国に突きつけられている。
司法は急性症状をどのように裁いてきたか
では、国の「しきい値論」について、司法はどのように裁いてきたのか。
長崎で被爆した松谷英子さんの裁判で、最高裁は、次のように判断した。
「DS86としきい値理論とを機械的に適用することによっては、遠距離被爆者にも脱毛などの生じている事実を必ずしも十分に説明することができないものと思われる。例えば、放射線による急性症状の一つの典型である脱毛について、DS86としきい値理論を機械的に適用する限りでは発生するはずのない地域で発生した脱毛の大半を、栄養状態又は心因的なもの等放射線以外の原因によるものと断ずることには、ちゅうちょを覚えざるを得ない。」
国は、平成12年に最高裁で否定され、その後の集団訴訟でも否定され続けた理論をいまだに主張し続け、原爆被害を小さく見せようとしているのであって、あまりに、被爆者を冒涜する態度というほかない。
いま福島では
福島では、2011年3月11日の原発事故後、子どもたちが、鼻血、下痢、のどの痛みなどを訴えている。
これも、国は、「ただちに健康に影響はない」などと言って、放射線によるものではなく、ストレスによるものとして片付けようとしている。
国は、原爆被害を小さく見積もろうとするあまり、そして、原発を維持し続けようとするあまり、同じ過ちを繰り返そうとしているように見える。
原発事故による被害の有無は、本件訴訟の争点ではないので、ここでは「内部被曝」(甲20)という書籍の一部を紹介するにとどめる。
自ら被爆を体験し、60年以上にわたって6000人を超える被爆者を診続けてきた肥田舜太郎医師は、福島の子どもたちに「下痢や鼻血が止まらない、口内炎が出る、のどが腫れて痛い」などの症状が多数報告されているほか(14、15頁)、南相馬市の50代の女性に脱毛が現れていることをふまえ、放射線の「長期的な『低線量・内部被曝』による影響が心配される」としている(91頁)。
国は原爆被害を直視せよ
原爆症認定集団訴訟で負け続け、原発事故による放射線被害が懸念されている今こそ、国は、被曝後の症状を、安易に「精神的影響」と片付けるのでなく、被曝前後の体調の変化やその後の病歴等をふまえ、原爆放射線による影響が出ていないのかどうか、謙虚に向き合うべきである。
以上
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裁判後にたんぽぽ法律事務所も入っている京町会館で、報告集会が行われました。
当事務所の
弁護士寺内大介が司会をいたしました。
報告集会では、今後の裁判の方針と見通しについて説明がされました。
雨で足場も悪い中、多くの方にご参加いただき、ありがとうございました。
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次回
第8回期日は、
11月2日(金)15時~です。
今後もご支援をよろしくお願いいたします。